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語録(001)
「先生の思い出や、先生に対する想いを書いたら厚い一冊の本ができあがってしまうだろう。ひとつひとつの言葉。ひとつひとつの行動。どれもが強烈に胸に焼きついている。そしてどれもが私に大きな影響を与えてきた。何年も経ってからやっと意味のわかったことも多い。先生の存在は、私の人生の重要な部分であった。」
(『中京女子大学通信 通巻第34号』「終わりのない弔辞」谷岡郁子著 P21988年3月20日)
語録(002)
「先生が逝かれて1か月半が過ぎた。私は、今、心というものが実際に身体の中にあるのだということ、そして、それが血を流すものだと信じる。もし、心が物質として存在しないのなら、この痛さは、一体どこから来るのだろうか。」
(『中京女子大学通信 通巻第34号』「終わりのない弔辞」谷岡郁子著 P2-31988年3月20日)
語録(003)
「先生は、私に対してアレコレ言うかわりに、どんどん自分で範を示し、その仕事ぶりと生き方を見せつけてくれた。私は、先生の背中だけを見つめて、それを追いかけてきた。先生に届くには、大変な距離があったけれど、どの方向を向いて走るのかは、迷わずにすんだ。むろん私は或る種メチャクチャなところがあるから脱線もした。しかし、それが、人間としての誠実さに根ざしたものである限り、寛容に見守ってくれた。」
(『中京女子大学通信 通巻第34号』「終わりのない弔辞」谷岡郁子著 P3-41988年3月20日)
語録(004)
「私は、元来、人の評価は気にならないが、先生の評価だけは気になった。先生のおめがねにかなう人間でありたいと願い続けた。先生の期待だけは、まるで負担に感じることがなく、いつか先生に喜んでもらえる人間になりたいと願っていた。」
(『中京女子大学通信 通巻第34号』「終わりのない弔辞」谷岡郁子著
P4 1988年3月20日)
語録(005)
「先生の為に何かしたかった。先生の命を守りたかった。(略) もっと嫌われてもよかった。しかられても勘当されても、長生きして欲しかった。そして意地悪されたりこき使われたりしたかった。 あまりに潔よいのに腹がたつ。かっこ良すぎて許せない。優しすぎるのがやりきれない。できることなら、両足をつかんで天国からひきずり降ろしたい。」
(『中京女子大学通信 通巻第34号』「終わりのない弔辞」谷岡郁子著 P4-5 1988年3月20日)
語録(006)
「留学生たちは、異文化を持ち込んでくれる大切な“生きた教材”なんですよね。」
(国際教育交流新聞『内外に開かれた大学づくりをめざして』「これからの国際交流を考える現場感覚」亜細亜大学・衛藤潘吉との対談 1989年9月10日)
語録(007)
「三年前、中京女子大学の理事会が、日本一若く未熟な学長を選んだのは、いわば過去を全否定する覚悟で、新しさと若さに賭けたのです。」
(国際教育交流新聞『内外に開かれた大学づくりをめざして』「これからの国際交流を考える現場感覚」亜細亜大学学長・衛藤潘吉との対談 1989年9月10日)
語録(008)
「教えられことに彼女たちは飽きている。教えずに、自分で見つけ、感じる環境を整えてやればいい。」
(中部経済新聞『行動する中部の女性群像』「若者に勉強の楽しみを…」記者の取材に対し 1989年11月6日)
語録(009)
「本能とは、知性と対立する概念ではない。むしろ無意識の『知』と呼べるものである。」
(『子育ては究極のレクリエーション』谷岡郁子著 徳間書店 P16 1991年11月)
語録(010)
「人間は、どれほど素晴らしい素質を持っていても、『やる気』というエネルギーを注ぎ込んで努力しないかぎり、その素質は眠ったままなのである。」
(『子育ては究極のレクリエーション』谷岡郁子著 徳間書店 P140 1991年11月)
語録(011)
「私は、人間社会のルールと自然のルールが対立する場合には、自然のルールに従うことにしている。」
(『子育ては究極のレクリエーション』谷岡郁子著 徳間書店 P156 1991年11月)
語録(012)
「若いころ、私は、家業だけは継ぐまい、とかたくなに抵抗していた。そして、いわゆる偽善的な教師のイメージを嫌っていた。そんな私が教師になろうと決意した時、私は、同時に、けっして自分自身の未熟さや馬鹿さを隠すまいと決めた。」
(『子育ては究極のレクリエーション』谷岡郁子著 徳間書店 P236 1991年11月)
語録(013)
「恋する女は止められない。」
(大学職員に対し 1992年)
語録(014)
「国家が国民に害をなし、評判を落とすような所業を放置し続ける限り、私たちの子供や孫たちも真の意味での日本の主権者たりえないだろう。」
(中部経済新聞「おぴにおん 役人のクビをちゃんと切るべし」谷岡郁子著 1995年10月30日)
語録(015)
「ある意味、人一倍ドジなバカモノだったから、私は学生たちの未熟さに共感できるし、今の仕事を愛しているのだと思う。」
(中日新聞「学長とコーヒーブレーク」記者の取材に対して 1995年12月18日)
語録(016)
「知識は教室で学べるけど、知恵は体験によって身につく。」
(中日新聞「学長とコーヒーブレイク」記者の取材に対して 1995年12月18日)
語録(017)
「若者には、堂々とバカモノでいてもらいたい。」
(中日新聞「学長とコーヒーブレイク」記者の取材に対して 1995年12月18日)
語録(018)
「私は思う。若者たちが考えていないのではない。大人が考えさせないようにしてきているのだ。」
(朝日新聞「フォーラム東海 常識覆す力持つ女子大生」谷岡郁子著 1996年4月6日)
語録(019)
「ここ数年、私は学生たちに、『学生時代は悩み迷うべき時代である。失敗は最高の教師である』と言い続けた。そして、どんな時も『私なんか』『私ぐらい』という言葉に逃げ込んではならないと訴え続けてきた。」
(朝日新聞「フォーラム東海 常識覆す力持つ女子大生」谷岡郁子著 1996年4月6日)